著者:吉本隆明
発行:大和書房
この本では吉本隆明さんの描く恋愛の姿が示されます。吉本さんが経験したり観察して感じたことや、文学における恋愛をまとめあげています。
冒頭では、恋愛の本質は昔も今も変わらず、距離感が変わってきていることを指摘しています。
恋愛の後の次の段階の結婚生活では理想通りになんかいかないと断言します。どこかで我慢が必要なんだと吉本さんは断じます。
その後は三角関係を例に追い込まれた恋愛の果てが、夏目漱石の作品から浮かび上がります。現実、三角関係におちいった小林秀雄と中原中也のことも書かれます。
結婚制度から子の位置の関係、虐待の問題に話は膨らみます。
最後には恋愛を文学として書くとはどういうことなのか、というテーマで締めくくられます。
第1章『「終わらない恋愛」は可能か』の中での、男女の精神の距離の取り方のところで考えがまとまらずにいます。
精神の距離感が遠いところから始まる現在の恋愛と、精神の距離感が近づいてようやく始まる以前の恋愛という2つの違い。吉本さんはこの点が気になっているようです。
現在の精神の距離感が遠い恋愛は、男女が簡単に別れてしまう。覚悟の具合が違うのだろう、ということなんだろうと思います。
その後では、「もてる」「もてない」は恋愛においては意味がなく、特定の相手と細胞がぴったり合うのが大事だと語っています。
誰からももてる人に集中するのではなく、この人にふさわしいのはこの人のように、細胞レベルで合う人が必ずくるとのことです。
「細胞が合う」という表現は、自分の経験に照らし合わせても感覚的に理解ができます。
精神でも日常でもなく細胞を合わせるという表現に吉本さんらしさがあふれている気がします。
ここまで読んで、ああそうだよなあと思っている自分と、いやちょっと待てよとブレーキをかける自分が同居しています。
「精神の距離感」が感覚としてまだ自分の中にストンと落ちてこないのです。
第1章全体を通してみれば、理屈としてそうなんだろう、筋が通っているなあとは思うのです。ただ感覚として「精神の距離感」をつかめずにいるのです。
その後の結婚生活は自分にとってまだ縁遠い内容なので、いつか来るその未来のために心に留めておきます。
漱石などの文学者をめぐる恋愛話も興味深く読めました。
三角関係には、同性の2人の間に切っても切り離せないような精神的な深いつながりがなくてはならない。
確かにこれがないとただの折れ線です。このつながりがあるから三角形を成す、という当たり前のことに軽い感動を覚えました。
第4章『結婚制度のゆくえ』でもゾクッとくる表現に出会いました。
『残酷さは愛情の裏返しである』という逆説的なタイトルが掲げられた節の一節です。
「ですから、もとを正せば、男が連れ子に敵対意識をもつくらい、女性が自分の子どもに愛情を注いでいるということです。」
ここで書かれていることと『残酷さは愛情の裏返しである』という節のタイトルが1本でつながったときに「ああっ」と驚いたのでした。
残虐だから母親が悪い、父親が悪い、なんて一口に言えない深さを感じました。
全体を通して、まだまだ理解し切れていないところもあります。特に、恋愛・結婚を文化的に見た考察の部分を受け止め切れていません。
でも、面白い1冊でした。次の吉本さんの1冊も楽しみです。