著者:斎藤美奈子
発行:筑摩書房
この本は文章の書き方を指南する「文章読本」ではありません。過去の文章読本を研究した「文章読本論」です。
引用および参考にしたという文献のタイトルが巻末に列挙されています。文庫版の巻末に収められたその総数は121冊。このうち、ほぼ3分の2にあたる89冊(追記の8冊を含む)が文章読本です。これだけの文章読本を読んで、文章読本作家の思惑を引きずり出し、痛快に論じてみせる。そんな本です。
斎藤美奈子さんの著書を読むのはこれが初めてです。きっかけは以前読んだ『調べる!、伝える!、魅せる! 新世代ルポルタージュ指南』(武田徹・著)や『うまい!日本語を書く12の技術』(野内良三・著)に引用された文を読んだことです。そこで引用された文に引かれるものがあり探し出してきたのでした。引用された文だからこそ、その一言にはパワーがあったわけですが、そこで引用された言葉だけでなく、文章全体からも並々ならぬパワーを感じ取ることができました。
この本のすばらしさはどこにあるのか。僕なりにまとめると「絶妙な切り取り方」「巧みなまとめ方」「ネーミングセンスの良さ」の3点に思えます。
「絶妙な切り取り方」というのは引用のうまさを表しています。引用された箇所を読むだけで、その著者に潜んでいる思惑や世界が伝わってきます。過不足ない引用の具合は見事です。
「巧みなまとめ方」とは、数ある文章読本を隠れたつながりでグループ化してみせる斎藤さんの妙を示しています。まとめ方のうまさに「は~」と言葉が漏れてしまいそうです。
「ネーミングセンスの良さ」は、そのままですね。切り取って分類してできた新しい概念に、これまた見事な名前を付けてしまうのです。「なるほど!」と唸ってしまうネーミングの良さです。
「ファンタスティックな挨拶文」と題された節で、文章読本作家のご機嫌ぶりをさらします。そのご機嫌ぶりを斎藤さんは3つに分類してみせます。
【A】恫喝型の挨拶文
憤慨→理解→脅迫→結論
【B】道場破り型の挨拶文
現状→落胆→義憤→結論
【C】恐れ入り型の挨拶文
謙遜→さらに謙遜→自負→結論
文章読本からそれぞれに引用された文を読むと、文章読本作家たちのご機嫌ぶりがよく伝わってきます。僕自身、斎藤さんの指摘を読むまで気づいていませんでした。けれども、この作家たちのご機嫌ぶりに一度気づいてしまうと、心の底に秘めたる笑顔が浮かんでくるようです。
ここと同じように文章読本作家の心理をうまく表現している箇所があります。第Ⅱ章始まってすぐのところに、こうまとめています。
(A)自分と同じ意見に出会う
→ 自信が湧いてつい人に教授したくなる(自慢)
(B)自分と異なる意見に出会う
→ カチンときてつい反論したくなる(反発)
(C)自分の知らなかった意見に出会う
→ 感動のあまりつい吹聴したくなる(伝道)
(D)自分の意見がどこにもないと気づく
→ これはいわねばとの思いが募る(発奮)
過去に数多の文章読本が出版されています。それでもなお、文章読本は新しく世に生まれています。新しい文章読本がどうしても生まれてしまうメカニズムがきれいに表現されています。著者の斎藤さんはこの後に続いてこう書いています。
【p.83より引用】
つまり何が書いてあっても「ワシにいわせろ」気分が盛り上がってしまうのだな。相当数の文章読本とつきあった当人(私)がいうのだからまちがいない。
他の箇所では『「ええい、こっちへ貸してみな」の心境』とも表現しています。これも文章読本作家たちの心理をうまく表しています。
80冊以上もの文章読本を読んできたからこそ説得力があります。まあ、この本の著者の斎藤美奈子さんの場合は文章読本ではなく、文章読本論になってしまったわけですが。
それにしても、文章読本作家が文章読本を書くに至った心情を表した(A)~(D)。この心情、文章を書き出す動機としてどこにでもありそうです。ブログなんかがいい例でしょう。日常を綴った日記であるとか、ニュース・出来事を伝えるだけの記事とかを除けば、世のブログの記事はこんなものではないでしょうか。
「あそこに書いてあったこと、私も同じこと考えてたの!」
「あんなこと言っているあいつはけしからん!」
「こんなすばらしい意見がこんなところにあったなんて!」
「誰も気づいていないので私の出番ですね!」
ようはどれも、隣の人のそでを引っ張って「ねえねえ知ってた?! ちょっと聞いてよ!」と語りかけるようなものです。当人はいい気分でしょう。でも、他の人からしたらお節介じみていて、ムリヤリ聞かされるならばただの迷惑。救いがあるとすれば、文章読本もブログも強制力はなく読むかどうかの選択の自由が与えられることでしょうか。
……なんて書きましたが、僕の文章こそがお節介の最たるものでしょうか。「これは自分のために書いているからいいのだ!」と居直るしかありません。
思わず脱線してしまいました。『文章読本さん江』から文章読本作家の気持ち、特にそのご機嫌っぷりに注目しているのでした。
本の前半、具体的には第Ⅰ章や第Ⅱ章でこうやって文章読本作家のご機嫌っぷりが示されていきます。ご機嫌っぷりを示し、バサッバサッと切っていく斎藤美奈子さん自身もご機嫌です。
けれども、第Ⅲ章から趣を変えていきます。明治時代の日本語の文体の変遷、ならびに明治から戦後に至る作文教育の解説が始まります。
今でこそ文体と言えば「だ・である体」(常体)と「です・ます体」(敬体)に分類できます。ところが、江戸時代から明治・大正へ経る過程には様々な文体が提唱され、試されたようです。江戸時代の書き言葉として「はべる・けるかな」が使われていたところに、「ござる・つかまつる体」を提唱した前島密。あの「日本近代郵便の父」の前島密が徳川慶喜に提案しています。残念ながら慶喜に届くまでにひねりつぶされたようですが。当時の言文一致体の走りです。今から見ると奇想天外とも写る文体はまだ他にも存在します。例を挙げてみます。
○「かッた体」
小文字の「っ」がカタカナの「ッ」で表記され、さらに「です」を使わずに「ありませんかッた」などと書き表した文体です。「おとッさんは家にいませんかッた」のようになります。
○「棒引きかなづかい」
発音が同じなのに表記を変えるのは負担になるとのことで「を・は・へ」を「お・わ・え」にし、さらに同音で伸ばす音を表すときにはひらがなであろうと「ー」を使うというものです。例えば「おとうさんは会社へ行った」は「おとーさんわ会社え行った」になるという、まあなんともすごい文体です。
斎藤美奈子さんもノリノリでこの文体をマネています。なんとも楽しそうです。
こういった明治時代の新文体の解説を前後して、作文教育の歴史が語られます。
現代を生きる僕らから見ると漢文の書き下し文を読んでいる気分にさせられる「漢文体」。まさに当時のエリート候補生のための文章。技巧を凝らすことが第一で、真実を映し出すなんてことは二の次なのでしょう。
こう極端なものが出るとアンチが生まれるものです。「綴り方教育」と呼ばれる「ありのままに自由に表現する」主義です。形式主義から無形式主義へ、束縛から解放へ、そんな流れがくみ取れます。これに続く戦後の争いも紹介されます。その争いとは、新かな体と旧かな体の争い、綴り方教育と作文教育の争い、です。そして、戦後の作文教育がしだいに読書感想文指導にシフトしていく様が描かれます。
明治から戦後に至る作文教育の歴史を読みながらワクワクしました。ノンフィックションのルポを読んでいるような感じです。自分の知らなかった歴史から始まるのだけれど、最後には自分が受けてきた教育にきちんと着地する。きちんと着地したときに、サーカスのアクロバティックな演技を見た気持ちになります。この途中、谷崎潤一郎の『文章読本』への不自然さも解消します。伏線が回収されていくようで気持ちいいものです。
さて、長い長い歴史の描写の後、最後の章、第Ⅳ章が展開されます。今までの伏線をすべて回収し、大きなうねりを伴いながら結論へ行き着きます。
文例集→修辞学→文芸批評と変遷し、読み物化していく文章読本。「あるがまま」の学校作文への反発から、新しい道へと舵を切った文章読本。純文学作品の文章を崇め奉る文学主義・権威主義に反抗する文章読本。今までの文章読本をパロディ化し、型を破った文章読本。多くの文章読本が登場します。さすが、80冊以上を読み込んだだけのことはあります。
続々と登場する例に驚きつつも、流れは「衣装は体の包み紙、文章は思想の包み紙」に至ります。ここでまさに斎藤美奈子節が炸裂します。少し長く引用します。
【p.331~332より引用】
どうりで、ジャーナリズム系の文章読本には色気が不足していたはずである。彼らの念頭には人前に出ても恥ずかしくない服(文)のことしかない。彼らの教えに従ってたら、文章はなべてドブネズミ色した吊しのスーツみたいなもんになる。新聞記者の文章作法は「正しいドブネズミ・ルックのすすめ」であり、まさに新聞記者のファッション風なのだ。…(中略)…
しかしまあ、それはよい。文は服である、と考えると、なぜ彼らがかくも「正しい文章」や「美しい文章」の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。着飾る対象が「思想」だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて褒められたいってことでしょう? 女は化粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ。近代の女性が「身体の包み紙」に血道をあげてきたのだとすれば、近代の男性は「思想の包み紙」に血道をあげてきたのだ。彼らがどれほど「見てくれのよさ」にこだわってきた(こだわっている)か、その証明が、並みいる文章読本の山ではなかっただろうか。
文章読本をすでに出版した人たち、これから出版しようとする人たちは「ギャフン」と言ったことでしょう。「ドブネズミ・ルック」だの「一張羅で褒められたい」だの書かれたら、どんな気勢もしおれてしまいます。それでなくても、橋本治さんの文章を引きながら「困った中年」などとも揶揄しているくらいです。もう完全にノックアウトです。この本を読んだら文章読本を書こうなんて気をなくしてしまいます。本当に罪作りな本です、『文章読本さん江』は。
あまりにも長い文章となってしまいました。調べたら4000字を超えています。書いては消し、書いては消しと何度も書き直しながら、やっとの思いで完成しました。
途中で書くのをやめてしまおうかとも何度も思いました。何というか、僕の文章力で伝えきれないというか、斎藤美奈子さんの文章に圧倒しっぱなしだったのです。苦労しました。もっとコンパクトにしたかったのですが、この興奮を表すにはこうするしかありませんでした。そう、途中で書いたとおり、まさに『「これは自分のために書いているからいいのだ!」と居直るしかありません』の気分です。なんとかゴールまでたどり着けて満足です。
でも、この文章を書くために1週間は費やし、そのために書きたい読書記録がたまってしまいました。そして、玉突き事故のように、新しい本を読むのもストップしてしまう始末です。
もう一度繰り返します。本当に罪作りな本です、『文章読本さん江』は。